<ワンスアポンな横浜ミステリー>

(ご注意)

こちらはジュールヴェルヌの冒険譚「80日間世界一周」の、日本へ寄港した2日間の部分へのオマージュと独自解釈による読書感想的妄想&背景検証の書となっております。

なので事前にお読みになられていらっしゃらない方にはお勧め出来かねるのです。

くれぐれも「80日間世界一周」をお読みいただいた後にご覧くださいますよう、お願い申し上げる次第です。

1872年10月2日、謎多き霧の神士フォッグ氏Mr.Foggと何処からともなく現れた自称合鍵君パスパルトゥー Passepartoutが80日間世界一周の旅に出てから43日目の11月14日夕刻、彼らはアウダ夫人Mrs.Aoudaを伴って3本マストに蒸気機関を備えた2500トンの外輪船「グラント将軍号」General Grantに駆け込み無事サンフランシスコに向けて出帆したのでありました。


グイーン、グイーン、グイーン、ポッポー。


さてこの横浜でのドタバタ劇の間、僕には気掛かりな疑問や妄想が次から次へと湧き出てまいりまして・・・。

皆様には是非、肩の力を抜いてお目通しいただければ幸いでございます。尚、当時の時代背景などはほぼwiki調べでございます。

もし、間違った記述や勘違いが在りましたらお気軽にご指摘をいただき、今後の改訂に活かしていきたいと思っております。どうぞごゆるりとお楽しみくださいませ。


ベン♪


ヴェルヌさんJules Gabriel Verneの編集者エッツェル氏Pierre Jules Hetzelへの配慮か、ハタマタ、児童書にはソグワナイと無理やりに原稿から削り落とされたかして封印されてしまった様々なミステリー、否、隠れた背景を時系列に沿って掘り起して・・・参りましょう。


あっ申し遅れました、本日ミステリーハンターを務めますは私、ドクター夢ッ破でございます。

寝て見るは夢、うつつ見るも幻、儚きは人生。

それでは皆様、暫くのお付き合いを、御ん願い、申し、上~げた~てまつります~~。


べベン、ベン、ベン♪


一行が横浜港(山下公園辺り)から出帆する少し前の11月14日、肌寒い、けれども空気の澄んだ昼下がりフォッグ氏とアウダ夫人は和洋中チャンポンの美しい街、紅葉の絨毯に敷き詰められた横浜ハーバーベイに溶け込んで。


「アウダ夫人、横浜は美しいですねえ。」

「はい、フォッグさん、私もそう思いますわ。」


紳士淑女がソゾロ歩いておりますと何やら賑やかな呼び込みが耳に入ってまいりました。


ピー、ピー、ヒャララ、ピーヒャララ♪

ダーン、ダ、ダ、ダン、ダン、ダダダン♪

ピー、ピー、ヒャララ、ピーヒャララ♪


何かのエンターテインメントショーらしき小屋を見つけ、もしや、と眼を見合わせる二人。虫の知らせか、互いに閃いたインスピレーションが絡み合い足早に木戸に向かいます。


「さあてさてさて、御用とお急ぎの無い御仁、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。今日のこの日のこの刻に、この場に出会った皆様は、超ラッキーなお歴々~。世界一との呼び声高い、かの有名なア~クロバット~ウイ~リアム~バタル~カ~一座はこちらでござい~。文明開化の横浜で、天下無双の大曲芸団~、まもなく開幕、開幕~~。」


フォッグ氏とアウダ夫人は立て板に水の様な呼び込み口上が何を叫んでいるのか皆目分からなかったけれど、英語のノボリで万事飲み込めたのでありました。


べベン♪


数々の上り旗が揺らめき笛や太鼓のお囃子と奇妙なイントネーションの呼び込みの先には、統一ユニフォームのハッピを着込んだ興行スタッフの鮮やかな誘導と、マナー良く整然と並んで入る観覧客の列の美しさからは日本人の美意識と公共マナーに感心し、二人も自然と列の最後尾に就くので有りました。


掛け小屋の木戸口に立つと、何故かブッ超顔のお兄さんに「へい、らっしゃい。お二人さんで木戸銭は10銭ぽっきり。」と言って手を差し出される。フォッグ氏はおもむろにスーツの右表下ポケットから小さな銀貨を取り出し黙って手渡す。


二人はテンション上げ上げで暖簾をくぐり熱気ムンムンの場内を見まわすと、ステージでは西洋人と日本人が一緒になって曲芸をしている最中でありました。天狗鼻の男たちが1人1人登場しあれよあれよと天に向かって組み上がる・・・・。


べベン、ベン、ベン♪


観客が固唾を飲んでステージを見守る最中、なんということでしょう、完成まじかと思われる人間ピラミッドの最下段から1人の天狗鼻が飛び出てしまいパフォーマンスを一瞬にして台無しにしてしまったのでありました。突然のハプニングに場内に悲鳴と怒号がパ二クルなか、その破壊者たる張本人が二人の前に駆け寄ってきたでは有~りませんか。


「ムッシュー」

「パスー」

マダムアウダの眼には光るものが。


べベン、ベンベン♪


混乱のざわめく場内をよそに三人は出口を探します。異変に気付いた曲芸団のボス、ウイリアム・バタルカーが鬼の形相で3人の前に立ちはだかり両の手を大きく拡げて文字どおりの仁王立ち。「コラ、マチヤガレ、イッテエ、ナンテコトヲシヤガルンダ、オメーラ、アッア~~~ン。」と英語で叫んだ。

冷静沈着なフォッグ氏はいつものように金で解決させるのです。スーツの左胸内ポケットに右手を差し入れると、幾枚かの紙幣を掴みだし、鬼、じゃないバタちゃんに向かって投げつける。


ヒュッ。


流石のバタちゃんも運動神経には自信が有り、決して嫌いじゃないマネーに気が付くと、何と言うことでしょう、見事に左手でキャッチしたではありませんか。


枚数を数えるまでもなく、その手ごたえで充分な金額である事を確信すると「サンキューベリーマッチ」と、つい「ベリーマッチ」まで付けてしまい3人を無罪放免、まるで当たり前のルーティンワークかのように、日本で覚えた90度の深いオジギまでしてしまうのでありました。


べベン、ベン、ベン♪


この後、無事に再開を果たした3人は桟橋に急ぎ、グラント将軍号に乗り込む事が出来たのでありました。


べベン、ベンベン♪


ここで最初のクエスチョンです。お気づきでしょうか?


バタルカー団長William Batulcarはアメリカ人で日本で興行を打って来ました。なのでUS$か日本円以外のマネーは使い道が有りませんよね。

一方フォッグ氏はイギリス、ロンドンを出発してからスエズ運河Canal Maritime de Suezを通りインド、シンガポール、香港とずうっとイギリス領の国々を周ってきて横浜に着いたのはつい数時間前のこと。

夕方には直ぐにアメリカに向かうのでイギリスポンドとシリングしか持ち合わせていない、ハズ。そして、お互いに為替レートも分からなければバタちゃんが困惑こそすれ即座に納得して怒りを収めた。

というのは一体全体???

ベン♪


さて、もう少し時を遡りましょう。11月14日の朝、パスパルトゥーは街を練り歩くチンドン屋(?)に、バタルカー曲芸団の英語のノボリを見つけます。直ぐにその掛け小屋を訪れアメリカ人のウイリアム・バタルカー団長に直談判し、人たらしの面目躍如、無事入団を許可され安堵した。


ベン♪


はて、この頃、横浜辺りにアメリカ人がどのくらい居たのでしょうか?1872年は明治5年です。ちなみに翻訳者によってはチンドン屋なる表現が有りますが、チンドン屋という呼び名はもう少し後1878年(明治11年)頃かららしいことを申し付けさせていただきます。


ベン♪


1858年、江戸幕府はアメリカとの日米友好条約を締結し、まず兵庫港を開港、外国人居留地を作りました。その後、横浜を含めて全国に何か所か作っています。この外国人居留地というのは、安全保障上、重大な役割を果たします。船が着く港のすぐ際(きわ)に作ってその区画の外国人の出入りを完全管理。当時、日本に来るには船舶以外に有りません。大きな軍艦は整備された港にしか寄港出来ませんので桟橋の至近に外国人居留地が在れば、海上からの砲撃に対して非常に有効な抑止効果が有ります。居留外国人が盾になるので文字通りのブロックになる訳ですね。


べベン♪


あっ、そうそう、現在の山下公園辺りは大正12年9月1日に発生した関東大震災の時に明治時代からのヨーロッパ風建築や公園の殆どが消滅してしまったので、その後に作り直されています。

明治5年当時の記録によりますと横浜居留地の外国人はオランダ、ロシア、イギリス、フランス、等で合計400人程度。毎年少しずつ増え、1880年(明治12年)には合計2000人になったとあります。

なので1872年に横浜辺りに居たアメリカ人は少なかったんじゃないかな?と思ったら何とこんな記事が。


べベン♪


1864年、アクロバットを日本で初めて披露したアメリカ人曲芸師リズリーさんRichard Risly という人物が実在したのです。但し、リズレー・カーライルさんと言う記述も有りました。彼は日本で乳製品ビジネスを広めようと来訪しましたがうまくいかず。アクロバットで滞在費(生活費)を稼いでいました。そんな折、同時期に来日していたアメリカ商人のバニクス氏(バンクス?)と出会います。


バニクス氏は当時人気を博していた足芸の浜碇定吉一座と手妻(手品)の隅田川五郎一座、そして曲独楽の松井菊五郎一座をスカウト。リズリーをマネージャー兼パフォーマーとして雇い入れたチームを組むと渡米し、「インペリアルジャパニーズトゥループ」Imperial Japanese Troupe(帝国日本一座)として全米を巡業。また、それ以前にも大道芸が盛んだった江戸時代、大阪出身の早川虎吉という人物は特に人気が有り錦絵にも描かれ1860年代には一早先に海外公演を行っていたそうです。


ベン♪


この隅田川五郎一座は、慶応2年10月17日(1866年11月23日)に、江戸幕府、日本外国事務、外国奉行、向山隼人(むこうやまはやとのかみ)によって日本で初めて発行されたパスポート(渡航免状)を受給していました。同日、57枚の渡航免状が発行されており、内27枚がこの隅田川一座の見世物芸人たちに渡っていますので、バニクス氏のチームはかなりの大人数だったのですね。ハッキリとは分かりませんでしたが、残りの30枚は浜碇一座や松井一座だったのか、それとも他にも渡航芸人が居たのか?


べベン♪


アメリカで時の第17代大統領アンドリュー・ジャクソンAndrew Jacksonにも喝見し、1867年パリ万博Exposition Universelle de Paris1867にも出演。このEXPO1867は4月から11月までの7か月間で42カ国が参加し、期間中に1500万人の来場客が在ったとされています。


日本が参加した初めての国際博覧会で、当時の江戸幕府と佐賀藩。そして単独で薩摩藩が日本薩摩琉球国太守政府として日本文化の大々的なプレゼンテーションを行いました。

江戸幕府派遣団の写真。中央の高い壇の上に座っているのが、第15代将軍、徳川慶喜の弟で民部公子として名代を務めた徳川昭武(14歳)。24人が映っていますが、派遣団は25人との記録があります。


べベン♪


幕府一行は1867年2月15日に横浜港を出帆。フランス郵船アルフェ号で香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデンを経てスエズに。この時点ではスエズ運河は完成していないので汽車でアレクサンドリアに。地中海を船で渡り4月3日にマルセイユ港に。1週間滞在後、汽車でリヨンを経てパリに。パリ到着は1867年4月11日、パリ万博の初日だったと有ります。

と言う事は、現地に先乗りの展示会準備スタッフがいたはずなので、

もしかしたら先述のパスポートの残り30人分はこの方たち用だったのかも知れませんね。


べベン♪


一座はロンドンを始めヨーロッパ各地を巡りアメリカやヨーロッパ各地でジャパニーズアクロバットブームを引き起こしたと有ります。ヴェルヌさんはこれらの資料もご覧になりバタルカー曲芸団のトピックを作りだしたやも知れません。


ベン♪


さて、話を元に戻しましょう。パスパルトゥーは14日の朝パトゥルカー曲芸団と出会う前、空腹を抱え無一文で街を歩き、古物商に立ち寄って自身の着ていた上等な洋服を売り、日本人の庶民服(きもの?)と幾ばくかの小銭(日本円)を入手。茶店で昼飯に有り付いた。でも長く日本に居る積りの無い彼は愛用の時計は手放さなかった。この時に着ていた上等な洋服は着の身着のままで飛び出した6週間前、ロンドンで着ていたままの服ですよね。途中クリーニングしたのかな?其れとも途中で買い換えたかな?・・・・・(汗)


べベン♪


・・・・・・・・・・さて、この続きは 2015年11月21日(土)&22日(日)「デザインフェスタ」での僕のブース(仮称)ミニヴェルヌ展 及び 翌23日(月)東京流通センターで開催される「文学フリマ」の僕のテーブルで。

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